望んでいた愛され方は叶わなかったという事実
「望んでいた愛され方で、愛されなかった」というのは、トラウマサバイバーたちの無念さの1つです。
それは、決して自分勝手な欲求ではありません。
すべての子どもたちが、本来、自分が望む愛され方で愛されて良いのですし、もしも、それが、不適切なものであれば、大人から躾を受ければ良いだけです。
そうやって、子どもたちは、自分の望む愛され方と、その適切さについて少しずつ学習しながら、大人になっていきます。
ですが、トラウマサバイバーたちは、そもそも自分が望む愛され方では愛されず、望むことそのものが良くないと、大人を通して学習してきました。
さらに、機能不全家族を運営する大人たちは、子どもを利用して自分の欲求を満たし続け、子どもを傷づけることなど、気に留めることはないのです。
そのため、機能不全家族に育った子どもたちは、自分の欲求については無頓着なのに、他人の身勝手な欲求だけは、受け入れるというパターンを形成していきます。
トラウマセラピーとは、この残念な事実を認めて、当時感じきれなかった怒りを取り戻し、リリースし、嘆くことをサポートすること。
この一連のヒーリングプロセスによって、私たちの内側に、スペースが開きます。
そして、そのスペースに流れ込んでくるものが、希望であり、愛なのです。
それでも愛されていたという事実
そんなヒーリングプロセスを、何度も繰り返し通過すこと。
それは、私たちが、トラウマの癒しのその先に向かうための、聖なる道です。
そして、その道を歩む人は、とても美しいのです。
私の目の前に現れた、ある相談者は、表情、動き、そして、存在そのものから、美しさが溢れていました。
そして、その人の奥から、「それでも愛されていた」というシンプルな事実が、静かに伝わってきました。
もし、私たちが、本当に全てから見放され、愛を一滴ももらっていなかったとしたら、おそらく私たちは、この世界には生きていられません。
今、生きているのだとしたら、どこかで、なんらかの愛があったということ。
それが、私たちが望んでいなかった形だったとしても。
小児期トラウマという過去の事実を低く見積もることなく、どうしたら、愛されていた事実を認めることができるでしょうか。
トラウマサバイバーとしての私は、その美しいひとの奥にある「それでも愛されていた」という事実に、観念しました。
防衛をやめる勇気
トラウマの癒しとは、トラウマの痛みに輪郭を与え、ありのままを認める行為です。
トラウマセラピーを受ける前は、痛みそのものに意識が及んでいないこともあります。
つまり、痛みの輪郭が捉えられていないのです。
親から受けた暴力を躾と認識していたり、自分が悪かったから仕方がないと認識していることは、トラウマによって、痛みの輪郭が捉えられてない、典型的な症例です。
激しい虐待を受けてきたサバイバーたちが、過去の出来事を虐待と認知するまでには、セラピーを受け出してから、早くても数ヶ月、長ければ、1年以上がかかることも珍しくありません。
それほど、トラウマは、人の認知を狂わせます。
それは、人の防衛本能が関わっています。
「暴力だと認めると、悲しすぎるから」
「暴力を愛だと思ってきたから」
「それが愛じゃないとしたら、何をもって親との関係を捉えていいかわからないから」
理由はたくさんありますが、どの場合も、生きるためには、そうするしかなかったという事実があります。
だとして、トラウマサバイバーが過去を認めることが、どれほど、勇気が必要であるか、わかるはずです。
生きるための防衛をやめなければいけないからです。
愛を認める痛み
この防衛をやめる意志から、トラウマセラピーはスタートします。
そして、痛みを受け入れ、リリースし、スペースを開けていった先にあるのは、「それでも愛されていた」という事実です。
生きづらさに悩み続け、過去の痛みに向かい合いながら、結局は愛にたどり着いてしまうのです。
私たちはどうやったら、トラウマの痛みのその奥にある「愛されていた事実」を受け入れられるというのでしょう。
私たちの傷ついた自我は、その事実を受け入れられず、悔しさに涙するかもしれません。
そのとき、押し寄せるのは、きっと、怒りや悲しみ、恐れ、不安が混ざり合った、複雑な情動でしょう。
その情動を全身で感じ、嘆き続けた先には、微かな安堵感と喜びがやってくるはずです。
開かれたスペースに差し込む、その微かな光に委ねること。
それが、傷ついた自我にとっての、一つのゴールかもしれません。
愛を怖いと思える人たちは、そんな尊い旅をしてきた人たち。
大丈夫。
きっと最後は、その愛に手を伸ばすことができるはず。
愛が本当はどんなものなのかを、私たちの魂は知っているのですから。
HEC 川村法子
コメント