心については、コーチングやカウンセリング、育児法の観点からも、たくさんの情報が出回っているため、もっともらしい答えを持っている人も多いと思います。
「私は自己肯定感が低いから、はっきりと物が言えない」
「私は自己価値が低いから、被害者でい続けてしまう」
このような自己信頼の低さと関係性での消極的態度のつながりは、確かに原因と結果として理にかなったものです。
逆を言えば「自己信頼が高ければ、はっきりと物が言えるし、被害者でい続ける必要ない」とも言えますね。
成功哲学としては、正しいですし、異論はありません。
ただ、このもっともらしい原因と結果を掴んでいるだけでは、癒しは生じません。
この原因と結果論は、自分を判断しているだけという場合も多々あります。
「私は自己肯定感が低いから、はっきりと物が言えない」
として「だったらどうしたらいいのか?」という質問に、納得できるように答えることができる人は少ないのです。
「だったら、自分を愛せばいいじゃない!」
というのは、あまりにも乱暴です。

本人は、自分を愛せないで苦しんでいるのですから、「愛せばいい!」というアドバイスは、「それができたら苦労しない」という結論に行き着くだけです。
気づいても変わらない日々
クリエイティブな職業についている私の夫は、仕事と趣味が同じような人です。
それをいうと、私も同じかもしれませんが(笑)。
自分のやりたいことを極めていく在り方を、私たち夫婦は尊敬しあっていますし、子育てにおいて大切にしていることを正直に分かち合える関係に、私は満足しています。
もちろん、互いに不足もありますから、私ができないことは夫が対応し、夫ができないことを私がやっています。
今だからこそそんな余裕と循環が家庭の中にありますが、17年前は違っていました。
職業柄、夫はとても忙しい日々でしたし、私は、いわゆる「ワンオペ育児」をしていた時期がありました。
当時はそんな言葉はありませんでしたから、自分が何をしているのか問題意識もなく、ただただ孤独な日々でした。
いや、自分の孤独を認知もしていなかったと思います。
辛い気持ちと向かい合う日々の中で、「ああ、私は、父に見放されたと思ってきて、孤独だったから、同じように仕事で忙しくして私を孤独にする人を好きになったのだな」と気がつきました。
当時は、確かに納得しました。
ですが、気がついても、夫は忙しいままだし、私のワンオペ育児も変わらずで、よく言う「気がついたら変わる」という心の方程式は、私には無効でした。
17年間の変遷
あれから、17年以上経って、私の生活は一変しています。
コロナの影響もありますが、夫は在宅勤務で、仕事は忙しいですが、通勤がなくなり、家族との時間は増えました。
DIYをする余裕も増えて、家の中には、夫が作った家具が並び、夫のエネルギーが家の中にも満ち始めました。
子どもたちの自宅学習は、父親としての夫が積極的に関わってくれます。
比較的仕事の時間調整がしやすい私は、夫が担当できないことをやっていますが、互いに情報を共有しているので、私がやれないときは、夫がやっています。
子どもの習い事や塾の面談、学校の先生とのやりとりも、夫が積極的に関わる機会が増えました。
夫婦の会話が増えて、子どもたちのことや、家族の将来設計について話す機会も増えました。
かつての忙しさ自慢(私の方が忙しい!俺の方が忙しい!)はなくなり(笑)、互いの仕事を応援しているのは、それが家族の幸せへつながることがわかっているからです。
反発や抵抗は、家族を窮屈にさせます。
父親の在宅勤務で、謎に包まれていた父の仕事について、子どもたちもより理解が深まり、私たち家族のつながりはより太くなりました。
17年前の私は、こんな未来があることを、全く想像できなかったと思います。
思えば、何年も、私は、パートナーシップについて、探求してきました。
セラピーのグループに出るたびに、「パートナーシップって何だろう?」と、ファシリテーターに尋ねてきました。
完璧な答えがあるわけでもなく、毎回小さな気づきとともに、その輪郭をなぞってきたように思います。
そして、この数年、もはや「パートナーシップって何だろう?」という質問をしなくった自分に気がつきました。
今だって、それについての全てを知っているわけではありませんが、「知りたい!」「わからない!」ともがいていた自分は、一旦は通り過ぎたのかもしれません(また、シーズンがやって来るかもしれません。。。笑)。
「一生懸命にもがいてきたんだね。あなたが努力してきたからこそ、今の私がここにいます。本当にありがとう。」と、今、過去の自分を労いたいです。
孤独が愛だった
そんなもがいてきた17年の中で、忘れられない気づきがあります。
「父に見放されて孤独だったから、同じように仕事で忙しくすることで、私を孤独にする人を好きになった」というのは、もっともらしい正論です。
ただ、私が見過ごしていたことは、私の“フェルトセンス”と、私のインナーチャイルドの“愛の誤解”でした。
フェルトセンスとは、体感覚です。
ある研究で、カウンセリングを受けるクライアントを観察している時に、フェルトセンスとともに感情の放出があったクライアントには癒しが生じていて、頭で考えているだけの人には癒しが生じてないという結果が出たといいます。
その研究結果を、私は、実体験として信頼していますし、実際、クライアントさんとのワークの中で、私がもっとも大切にしていることです。
幼い私は、孤独を、ヒリヒリとした焼けるような痛みと、ひんやりとした氷のような感覚として感じてきました。
ヒリヒリとした焼けるような痛みは、母のものだったのかもしれないと思います。
ひんやりとした氷のような感覚は、父が持っていたものかもしれないと思います。
大人は子どもの<情動モデル>つまり、感情学習のモデルとなる存在ですし、大人が言葉に出さない感情を、子どもは感じ取って真似します。
また、孤独であればあるほど、子どもは、なんでもいいから親のものを握り締める傾向があります。
この中で、著者のブラッドショーが書いている「人は見捨てられてしまっていればいるほど、それだけ強固に自分の家族や両親にしがみついたり理想化したりする傾向がある」というのは真実です。
残念ながら、孤独であればあるほど、子どもたちは、親の間違ったやり方にしがみついてしまうのです。
幼い私は、どうしようもない孤独から、その両方の感覚(ヒリヒリした焼けるような痛みとひんやりとした氷のような感覚)を、両親とのつながりとして、持ってきたのでしょう。
それは、「父に見放されて孤独だったから、同じように仕事で忙しくすることで、私を孤独にする人を好きになった」という正論のもっと奥にある、愛の勘違いです。
ヒリヒリした焼けるような痛みも、ひんやりとした氷のような感覚も、愛ではなく、痛みです。
幼い私が、父に見放されたと感じ不安と恐怖でいっぱいで、また内心は怒り、孤独を感じている母の側で、同じように感じてきたことは、残念なことでした。
私は、このような両親の解決できない感情に晒されるのではなく、安心して、愛されていると感じる必要がありました。
私がやりたいと望むことを、応援してくれたことは、何よりもありがたいことでした。
だけど、私が、十分に愛されていると感じることができず育った時期があったことは、とても残念なことでした。
それについて、もはや、私は親を責めようとは思いません。
ただ、残念だったなと感じます。
そして、自分自身の成熟した親として、過去の自分に「頑張ってきたね」と、心の中で伝えています。
認知が癒す
「父に見放されて孤独だったから、同じように仕事で忙しくすることで、私を孤独にする人を好きになった」というのは、過去の自分を表面的に見立てた<判断>であり、<認知>ではありません。
このような<判断>をしてるだけでは癒しは生じません。
フェルトセンスがないというのも、<判断>の特徴です。
頭ではわかっているけど、変化しないという時は、だいたいフェルトセンスを伴わない<判断>が生じています。
そして、その判断の奥に存在する、幼い自分のありのままを認知できるようになる時、深い気づきが生じます。
そのためには、フェルトセンスを取り戻すことが必要です。
私で言えば、“ヒリヒリした焼けるような痛み”と“ひんやりとした氷のような感覚”のことです。
そして、これを、幼い私が、両親とのつながりだと感じていたという、とてもピュアな子どもの感覚にたどり着くことが、<認知>です。
もっともらしい<判断>をし続けているとしたら、私たちは、自分を傷つけている可能性があります。
その奥に、本当は両親を愛していて、寂しがっている幼い自分がいるのです。
その子の気持ちに気がつくことなく、「私は自己肯定感が低いのだ!」「私は自己愛が乏しいのだ!」とか、「自分を愛せばいいのに!」という正論を振りかざすことは、有効ではありません。
場合によっては、自分自身を深く傷つけてしまっている場合があります。
癒すためのトレーニング
前述したように、癒しを生じさせるためには、<フェルトセンス>を取り戻すことが、何よりも大切です。
ですが、傷つきすぎたサバイバーにとって、<フェルトセンス>を感じることは、容易ではありません。
幼い頃に、あまりにも傷ついてきて、全身に感じる苦痛という<フェルトセンス>に圧倒されてきたために、麻痺することで対応してしまうからです。
体感覚の乏しさは、サバイバーの特徴の1つです。
かろうじて、感じられても、首から上の感覚しかないということもあります。
頭が思考でいっぱいで、首から下の感覚が乏しいのです。
そのために、私たちは、何度も何度も、<フェルトセンス>を感じる作業を繰り返していきます。
やっていくうちに、過去に麻痺させてきた<フェルトセンス>が蘇ることもあります。
置いてきぼりにしてしまった感情がやって来ることもありますが、成熟した大人として、その感情を受け止めることで、それは、安心して解放されていきます。
涙の流れない気づき、<フェルトセンス>のない気づきは、判断ですから、通過点でしかありません。
たくさん泣くことと、たくさん体で感じることが、私たちを癒してくれます。
そのために私たちは、トレーニングが必要です。癒しは、
STEP 1:痛みに圧倒されて麻痺させてしまった<フェルトセンス>を取り戻し
STEP2:成熟した大人意識を育てて
STEP3:愛の誤解を認知するという
3段階で表現されます。
この3ステップを繰り返し通過していくことが癒しの鍵となります。
その意味で、癒しは、トレーニングによって生じるものと言えますね。
だとしたら、苦しい自分を責める必要はないんです。
なぜなら、ただ、トレーニングをすればいいからです。
自分の運命を悲観する必要はないんです。
なぜなら、ただ、トレーニングが足りてないだけだからなんですね。
ハートエデュケーションセンターは、癒しというトレーニングを、これからも提供していきます。
ACEスコア4という致命的なトラウマ指数の私が、今こうして、好きな仕事をして、夫婦で協力して、子どもたちにケアと教育を与え、家族の未来を設計しながら、日々を健康に楽しく生きていることが、私の活動の原動力であり、みなさんに伝えたい希望です。
一人でも多くのサバイバーを救うために、ハートエデュケーションセンターは、これからも活動を続けていきます。
